禁じられた祈り

 突然二階の窓をがらりと開く音がしたのは、幾松が仕事を終えて食事も入浴も済ませ、寝支度をしている時だった。女一人暮らしの身としては用心深くあるものなので、窓が開いた音に必要以上の驚きを感じた。だが、屋根を伝って二階の窓を訪れる者を一人だけ知っていた。泥棒だったらきっと、もっと音をたてないようにやってのけるだろう。いつも窓は盛大な音を立てて開く。その音はある意味玄関の呼び鈴みたいな役割もなしていた。幾松が音がした部屋に顔を出すと、案の定桂がいた。
「夜分に済まない。緊急の用でな」
「緊急って今何時だと・・・、あんたどうしたの?」と幾松が見たのは、桂の着物を汚す赤だった。
「いや、大したことはない。ちょっと斬られただけだ」
「ちょっとって、全然大したことなくないでしょ!こないだよりもずっと酷いじゃないのさ。早く入って、ほら」
 びっくりした幾松は桂に肩を貸して部屋の中に導いた。それから慌てて桂の着物をはぎ取ると、斬られたという部分を手当てし始めた。最初は真っ赤な血を見てしまったものだからずいぶん焦ったが、思ったほど酷くはなかった。傷は大して深くなかった。消毒して包帯を巻いてやりながら、幾松は愚痴っぽい口調で言った。
「ったく危ないことばっかりしてるんじゃないよ、せめてやるならわたしの見えないとこでやってくれない?・・・こんな怪我見せられたらびっくりするじゃないのさ。全くあんたは、命が一個しかないって分かってるの?」
「これは違うぞ、向こうが突然斬りかかって来たのだ。あの刀は・・・いや、何でもない。幾松殿、迷惑をかけてすまなかった。悪いが今夜一晩、置いてもらっても良いだろうか。行動に起こすのは明日以降にした方が良さそうだ」
「明日も安静に決まってるでしょ!その怪我で動き回るなんて、傷を更に痛めつけるだけだよ。全く男ってのはどうしてこうもバカな無理をしたがるんだか」
 動揺を隠すために、声を荒げた幾松の顔を桂はまっすぐ見つめた。
「・・・さあ、どうしてだろうな」
 桂は呟いた。痛いから、しばらくは背中を上にして寝るしかないねと幾松は冗談交じりに言った。実際仰向けに寝てみると、涙がにじむほど痛かった。
「いててててっ、・・・うむ、幾松殿の言う通りだな。今日はうつぶせで眠ることにしよう。あ、大丈夫。俺は結構どんな体勢でも眠れるから。ほら、戦場で寝る時にはそういうこと気にしてられなかったからな。どんな体勢でも寝れるだけ幸せだった、あの頃は」
 桂が何かを思い出すように呟くと幾松は全く関係ないことを指摘した。
「あんた、その髪どうしたんだい」
「ああ、これか。俺を斬った男に髪も奪われた。どうだ、似合うか?」
「バカなこと言って。本当・・・、命が助かっただけでも儲けもんだったんだね」
「そうかもしれないな。残念だが、あの刀には勝てまい。あの刀は、生身の人間では到底太刀打ち出来まい。そんな刀に斬られてもなお、こうして君と話していられるだけでも俺は幸運なのかもしれない」
「そんなすごい刀なの?刀にそこまで違いがあるって言うのかい?」
「普通の刀ならばそれほどの違いはないだろう。刀を良いものにするのも悪いものにするのも使い手次第だ。だが、あの刀は違う。あれは妖刀だ。といっても、俺にも詳しいことはまだ分からない。ただ一つ分かっているのは、このままでは大変なことになる、ということだけだ。何とかせねばなるまい」
「何とかって・・・そんな危ない刀にどうやって対抗出来るっての」
「それはこれから考える。何もしないわけには行くまいからな。男として生まれたからには、自分がすべきことくらいはわきまえている。それより幾松殿。その、ちょっと腹が減っているのだが、何かないか?いや、その斬られて死んだふりしてたんだけど、なかなかあいついなくならなくってさ、夕飯をな、まだ食べていないのだ」
「あんたってば、そんな怪我しても食べ物の心配かい。・・・ちょっと待ってな、何か作って来るから」
「あ、いや俺も行こう」
「動いたら駄目だよ」
「大丈夫だ、血の量ほど酷くない。実際そう大した傷ではない。このくらいで甘やかされてしまっては、仕事で疲れている幾松殿に申し訳ないからな」
 そう言いながら桂は足を踏み出そうとしたが、予期せぬ痛みに顔をしかめた。ここに来るまでは無我夢中で痛みなどさほど気にしていなかったが、今改めて自分が負う傷がどれほどのものなのかを知った。そんな桂を幾松は冷静にたしなめる。
「良いからじっとしてて。動いたら食べさせてやらないからね。全く、かっこつけたこと言ったってこんな姿になっちゃおしまいだよ」
 幾松はぶつぶつ言いながら立ち上がると台所に行って、軽食をこしらえた。といってもほとんど残りものだったので、温めるのとあと少し、アレンジを加えたに過ぎない。それでも口で言う以上に空腹だった桂にとってはありがたい食事だった。幾松が卓を桂がいる部屋に運び込み、そこに食卓を築いてやると桂は目を細めた。
「家に帰ると温かい食事が待っている。男の理想だな」
 桂がぽつりと呟いた言葉に対して、幾松は何も答えられなかった。それは桂がその理想とやらを裏切ってでもやり遂げなくてはならない大きな仕事があるからだ。国を変えるという信念の元では、理想なんて甘い戯言に過ぎない。おそらく桂という男は、そういった誘惑を幾度も乗り越えて来たはずだ。自分の信念を明確にするたび、何かを切り捨てて来たはずだ。そんな男が今、幾松の目の前で思わず本音を吐き出した。聞いてはいけないものを、聞いてしまった気がした。
「おなかすいてるんだろ、さっさと食べて寝た方が良いよ」と幾松が振り払うように言うと、桂ははっとなった。
「そうだな」
 米一粒残さないほどきれいに食べきった桂は箸を置くと、静かにごちそうさま、と呟いた。それからもう一度ありがとう、と幾松に感謝した。ただの残りものだよ、とぞんざいに答えた幾松は食器を片づけながら、桂が対峙するものを考えた。そこには幾松が知っている「現実」など一つもないのだろう。攘夷、テロリスト、敵対、刀、そして赤い血。桂が違う世界の人間だということは分かっていたはずなのに、それでも愕然とした。
 幾松が戻ると、桂は窓越しに空を眺めていた。幾松の気配を感じたのか、突然話し始めた。
「さっきも言ったが、あの刀がこれからどこに牙をむくか全く分からない。だから俺はそれを突きとめようと思う。そして、叩き潰さなくてはならん。俺は今まで何度も、命をかけた戦場をくぐりぬけて来た。この国を天人から守る、地球は地球人のものだ、そういう頑なな思いがあったから、命など惜しくはなかった。俺のような男はそれで良い。・・・これからも、そうでなくてはいけないな」
「じゃああんた、見えもしない何かのために命投げ出すの?」
「見えるものだけが重要ではない。思想のために死ねるのならば、それも一つの幸福の死のかたちだとは思わないか?人間誰でもいつかは死ぬ、だが思想は、信念はいつまでも残る。この国を救いたいと願う攘夷志士たちの思いは俺の命ほど簡単に費えることはないだろう。思いは誰かへと継がれ、生き続けるからだ」
 月に照らされた桂の横顔を眺めた幾松には、それがただの人に見えた――斬れば血を流す、傷が深ければ死んでしまう、ただの人に。
 果たして今まで、桂を何だと思っていたのだろう。

 一晩経つと、桂の顔色は少し良くなっていた。それでも幾松は何だかバカなことをするんじゃないかと要らぬ心配などしてしまい、仕事の合間にも時間が空くとちょいちょい様子を見に行った。桂は大体眠っていたが、時に幾松に気づくと話をしたがった。少し寝ぼけたような口調で幾松に話しかけ、それから幾松が仕事中なのを思い出すと、ふっと口をつぐんだ。
 幾松は、目を離している間に桂が消えてしまう気がした。
 お昼になって、昼食に作ったそばを持って二階に上がると桂は眠っていた。机に昼食を置いた幾松はそのまま眠らせて上げた方が良いかもしれないとも思ったが、そばが伸びてしまったら桂の方が怒りそうだったので結局起こすことにした。
「お昼だよ、そば作ったけど」
 そう声をかけながら、幾松は桂の肩を軽く揺すった。すると桂の目がぱちりと開いて、まっすぐ幾松を見た。
「ああ、また眠ってしまっていたか。この状態だと何もすることがないからすぐに眠くなってしまっていけない」
「良いんだよ、寝る子は育つって言うでしょ」と幾松が面白がって言うと、桂は眉をしかめた。
「子どもじゃない、もう十分大人だ」
「どうだかね」
 くすくす笑いながら幾松は言った。少し何かを考えた桂は、自分に背を向ける体勢でいる幾松の腰に手を回した。突然引き寄せられた幾松は思わずバランスを崩し、桂の上になだれ込む羽目となり、盛大な悲鳴が上がった。
「いっでででで!いったいなあ!」
「・・・ごめん、でも今の、あんたの方が悪いよね?」
「いや、悪いのは俺を子ども扱いした幾松殿だ」
「何でも良いけど、さっさとご飯食べてよ。わたしまたお店戻らないといけないんだから」
「ああ、そうだったな。幾松殿は忙しい身だ。俺なんぞがあまり引き留めてはいけない」
「そんないじけたこと言わないで、怪我が治ったらいくらでも動き直れるんだから」
 幾松は立ち上がると、自分をじっと見つめる桂を見下ろした。
「また様子見に来るよ」
「うむ、待ってるぞ。眠りながら幾松殿が来るのをただ待ち続ける・・・、まさにこれは眠り姫の体ではないか、うーん。驚いた」と桂はぶつぶつ言った。
「男のくせに眠り姫だって?図々しいにもほどがあるよ。付き合ってられないわ」
「ん、何を怒っているんだ?」
「怒ってないよ、呆れただけ」
「そうか、何だか怒っているように見えるが」
「伸びる前に早く食べな」
「ああ、そうだった」
 納得する桂に幾松は背を向けると階下に戻り、また仕事に戻った。常連が何人か来て、日々のたわいない日常を報告していく。どこの誰誰が結婚しただとか、子どもを産んだとか、テレビやニュース、そんな何でもないことを言っては感想を述べて、その日常にまた帰る。そんな時、いつも不思議な余韻で心が揺らいだような気がして、幾松は自分が何も持っていないのではないかという錯覚に陥った。死んでしまった夫が残したものを、ただひたすら、がむしゃらになって守るしか未来がない女。そんな自分のレッテルを忘れようと、働くしかなかった。
 何かを待っているつもりはない。おそらく、夫を奪われてからの年月で何かに期待することにさえ疲れてしまった。強いていうのなら、おそらく老いて行くのを待っているのかもしれなかった。老いて、永遠にも思えるようなこの生活が終わるのを。
 扉が音を立てて開き、客が入って来たので幾松は仕事に集中しなくてはと思った。上に誰がいるかとか、どうしているかとかそんなことを気にしているだけの余裕はない。あれだけ大好きなそばだから、まさか放ったまままた眠っているなんてことはないはずだ。夕食はもっと力になるものにしなくては、と考えた。そばでは、あまり栄養にもならない。傷を治さなくてはいけない。
 太陽がだいぶ傾き始めた時間になったので、少しおやつでも持って行ってあげようと杏仁豆腐を皿に盛った。赤い彩りも付け加えた瞬間、昨日の桂の血を思い出して思わず顔をしかめた。あれほどの血を流す傷を負った者などもちろん一度だって見たことがない。桂の世界では、ああした傷さえ驚くほどのものではないとみなされるのか、だとすれば桂が言う通りいつ死んでもおかしくない。
 クコの実をあえて入れたまま、幾松はまた二階に上がった。そばはきれいに平らげられていた。そば好きの桂がそばを残したりするような真似をするはずないのは分かっていた。杏仁豆腐を卓に置きながら幾松が桂を見ると、またも眠っている様子。穏やかな寝顔を覗き込みながら、本当によく寝るものだと半ば感心した。病人だから仕方ないのだろうけど。傷を負った病人でも眠いものなのか。それにしても、男にしておくにはもったいないきれいな顔をしているものだと、幾松が何となしに見惚れた瞬間、桂の目がぱちりと開いた。
「幾松殿が眠り姫を甘い接吻で起こしてくれるものなのだろうと、ずっと待っているのだが」
「あんたの言い分によれば、じゃあわたしが王子?」
「まあ、そういうことだ。安心しろ、幾松殿が寝床から出られないような状況になれば、もちろん俺が王子だ。今回は特殊な事例ということで致し方あるまい」
「王子なんか要らないし、わたしも王子にはならないから。全くどこまでバカなんだか」と呆れた口調になった。
「それより杏仁豆腐持って来たんだけど、食べない?ただ寝てるだけでもつまらないでしょ。・・・タヌキ寝入りじゃなおさらさ」
「つまらないということはないぞ。いつ幾松殿が遊びに来てくれるかと、わくわくしながら待っていたからな。おお。杏仁豆腐か、ありがたい。幾松殿の杏仁豆腐は絶品だからな。早速いただこう」
 桂は布団に入ったまま、卓に手を伸ばして杏仁豆腐の器を手に取るともそもそ食べ始めた。その格好が何だか面白かったので、幾松は思わずくすくす笑ってしまった。
「ん、どうした?」
「すごい体たらくだね、あんた」
「布団から出るのが億劫でな。・・・そう笑うようなことか?」
 不思議そうに桂が聞くと幾松はただ笑顔で答えた。桂は律義にクコの実だけをスプーンですくって口に運び、それから杏仁豆腐を一つ一つ、またすくって口に運んだ。
「うん、美味い。幾松殿もどうだ?」
「良いよ、それはあんたに作ったんだから」
「そう言うな。美味いものは一人で食べるより、誰かと食べる方がもっと美味いものだ。ほら、」
 桂は寝転がったままの体勢で、幾松にスプーンを差し出した。
「良いってば」と幾松が思わず言うと、桂は笑った。
「何だ、照れてるのか?」
「ばっ・・・、誰が」
「そう照れるほどのことでもないだろう。ほら、食べて。ん、」
 真顔で桂が差し出して来るスプーンから、結局幾松は杏仁豆腐を一口もらった。美味しいことくらい、作ってるのは自分なのだからちゃんと分かっている。それでも、桂がじっと自分を見つめるものだから呟いてしまった。
「美味しい」
「そうだろう」
「何であんたが作ったみたいに得意げなの」
 痛いところを突かれてしまった桂はしばらくいじけた思いになりながら、杏仁豆腐を頬張った。そして、器が空になるとごちそうさま、と言って卓に戻した。また幾松が店に戻らなくてはならないことはもちろん承知している。けれど、ずっと一人でただ眠っているせいかどうも戻って欲しくなかった。もちろん、そんなわがままを言うような子どもじゃない。大人だから、行くなとは決して言わないのだと桂は自負した。いつ、幾松が立ち上がるかもしれない。その瞬間を恐れる自分が嫌だったので、桂は自ら言った。
「俺は大丈夫だ。幾松殿は仕事を続けてくれ」
 幾松は立ち上がりながら、桂にまたね、と声をかけて戻って行った。

 次の日、幾松は桂が退屈だろうからといって、寝床をテレビがある部屋に変えてやった。
「これなら寝てばかりってことにはならないだろ。それに、世の中のことも多少は知っとかないとね」
「かたじけない。だが、どうも眠いのは事実だ。どうしてだろう、こんな傷を負う羽目になったのに、俺は今、かつてないほど安穏な気持ちだ。・・・おそらく、これからのことが一筋縄じゃ行かないのを予期しているからかもしれないな」
「その怪我が治るまでは大人しくしてなよ」
 幾松が厳しい口調で言っても、この点についてだけは桂の決意は揺るがなかった。
「そうのんびりもしていられない。うつ伏せ以外の体勢もとれるようになったら行かねばならん」
「しばらくはうつ伏せとくんだね」と幾松は笑いながら言って、桂の背中をそっと叩いた。それだけでも桂は熱湯でもかけられた反応をする。
「いった、いったいっっての!何をするんだ、幾松殿!痛いんだって、本当に痛いんだって」
「あらあら、涙まで堪えてバカだね。じゃわたしは店開けて来るから」
 からからと笑いながら幾松は桂を置いて日常に戻った。そのか細い声が突然聞こえて来たのは、お店を開けてから三十分も経たない頃だった。幾松は店の掃き掃除をしているところだった。
 最初は遠慮がちだった声が、だんだん堂々として来た。
「幾松殿ー?ちょっとー、聞こえてるかー?おーい」
 一体何やってるんだろうと幾松は眉をしかめつつ、ちりとりに入っていた細かいごみを捨てた。
「あれ、聞こえないのかなあ、それとも忙しいのか?せめて返事くらいしてくれないかなあ?」
 またバカなことを言って、とちょっといらいらしていた様子を装いながら幾松は階段をのぼり、桂がいる部屋に行った。ふすまはちゃんと開けっぱなしになっていたので、声は桂が思う以上によくとおった。
「お客さん来てたらどうする気なのよ、少しは考えてよね!」
 だが相変わらず布団にうつぶせの状態で寝そべる桂は大して悪びれた様子もない。
「まあ落ち着け。結果的には誰もいなかったのだからそう怒ることもないだろ」
「で、何。どうしたの?」
 無視して幾松が聞くと、うむ、と桂は頷いた。
「どうしてもんまい棒が食べたい。持ってあったものは昨日全部食べてしまったのだ。悪いが、後で時間を見て買って来てくれないか?あ、ちなみに味はサラミなんだけど」
 それを聞いた幾松がしばらく俯いたままだったので、聞こえなかったのかなと思った桂が覗きこんだ瞬間だった。幾松がいきなり怒号を上げた。
「あんたわたしのことどれだけ暇だと思ってんだい?こっちは店やってんだよ、客にラーメン出してんだよ。おめーみたいなバカの相手ばっかりしてる暇ねーんだよ!そんなに食いたきゃ身体引きずってでも勝手に買ってくりゃ良いだろうが!おめーがそれで死のうが真選組につかまろうが、知ったことじゃねーよ!」
「・・・あ、怒らせちゃった?」
「あ、じゃねーよボケ!んまい棒だと?ざけんなよ、さっさと出てけ!」
 怒り狂った幾松がすごい音を立ててふすまを閉めるとその反動でまた開いてしまった。だが、閉めた者は気にすることもなくすさまじい足音を立てながら階段を下りて行った。こりゃあだいぶ怒らせてしまったようだ。昼食も、ひょっとすると夕食さえないかもしれない。昨日はそばやら杏仁豆腐やら、夕食にもかつ丼とかすごく豪華だったのに、今日だってバカなことさえ言わなければそんなビップな待遇が続いただろうに。バカをしてしまった桂はんまい棒のためにやらかしてしまったのを後悔した。何より、やっぱり甘えて良いのは限度があったようだと痛感した。さすがに出てけ、というのは本気じゃないのを信じるしかない。
 そんな時に限って桂が見たのは夫婦の映画だった。温かくて、確かで、どこまでも静的な老夫婦の話だった。子どもたちに会いに江戸に来る老夫婦。だが忙しい子どもたちはなかなか親を相手にする暇がない。それでも、夫婦の絆だけは確かだ。こんな子どもを持ってしまった、なんて哀愁はない。だから見ている方が余計に悲しくなってしまう。二人はいつも、たわいない会話ばかりで、どうもうわべだけというか、愛し合っている様子もないし、寄り添う特別な意味も感じない。なのに、その表情はとても良かった。無口な印象の夫婦だったが、時々見つめ合う目が非常に美しい。年をとって、こんな風に寄り添い合えるのはきっと素敵なことだろうなと桂は思った。背中は痛い。
 こういう何でもない二人に限って、一人が死んだら残されたら廃人になったりするんだと勝手に想像した桂は、何も知らないのに、と自嘲した。夫婦のことなんか何一つ知らないのに。想像力だけだったら、人に負けないつもりだ。幾松もまた、こういう風に寄り添うつもりだったかもしれない夫を失った。その傷を、桂は思い描こうとしたが、怖くなってやめた。そんなことを考えていたら、とてもここにはいられない。
 映画の妻の方が亡くなって、桂はただショックだった。どうしてだろう、夫はきっともう長くあるまい。映画では例え描かれなかったとしても長く生きられないだろうと直感した。その瞬間、ぽたりと一つ涙が落ちた。今からそんなことを考えるものじゃない、自分を叱咤した瞬間、ふすまが開いた。
「ちょっとは反省した?お昼持って来たよ、・・・何で泣いてるの?」
 桂の目に伝った涙を見た幾松はぎょっとなった。
「ちょっと、もしかしてさっきわたしが言ったこと、そんなに酷かった?まさかあんたが泣くなんて・・・、悪かったよ」
 珍しく幾松は動揺した。
「まさか。ちょっとこの映画が良い映画だったものでな。反射行動みたいなものだ」と桂が言うと、幾松は頬にくっついた涙を指でちょいっと拭った。あの夫婦も、どちらかが泣いたらこんな風にするのかもしれないと桂は淡い期待を抱いた。自分をまっすぐ見つめることに何の抵抗も感じない、幾松を裏切るわけには行かない。それに、と桂は更に続けた。
「幾松殿が怒るのは当然だ。あんなに怒っていたのにそれでも昼飯を持って来てくれるとはかたじけない」
 幾松はテレビに視線を向けると、モノクロ映画がやっているのを目にした。卓の上に八宝菜と白いご飯、小ぶりのラーメンを置きながら聞いた。
「そんな、泣くような話だったの?」
「そういうわけでもない。何と言うか、まあそのあれだ。命の重みと言うのは突然ふいに、この手の中で生まれるものだ。人が死ねば、やはり悲しい。美味そうだな」と桂はやっぱりうつぶせのまま手を伸ばしながら言った。何度見てもその格好が、幾松には面白かった。
「あれ、幾松殿。これ・・・」
 お盆の上の食事に並んで、んまい棒が乗っているのを桂は発見した。
「常連さんが買って来てくれたの、今度会ったらちゃんと自分でお礼良いな」
「なるほど、親切な人もあったものだ。ありがたい」と桂は言うと、八宝菜に箸を伸ばした。それを口に運ぶ前に、唐突に聞いた。
「幾松殿、」
「何、」
「夫婦というのは一体どういう会話をするのだろう?」
 モノクロがカラーに入れ換わり、映画が終わってCMになるのをちょうど見届けた幾松はその質問を耳にして、思わずぐっとこぶしを握りしめていた。桂はそれに気づいた。
「どうしてそんなこと聞くの」
「俺には分からないから聞いてみたまでだ。言いたくなかったら言わなくても良い」
 桂の言葉の意外な動揺がその声には隠されていたが、同じぐらい動揺していた幾松は気づくだけの余裕がなく、声が上ずった。
「もう忘れたよ」
 それが本当なら良いのだがと桂は思った。

 幾松が太陽さえもまだ寝ぼけ眼で地上を照らす仕込みの時間に店のいつもの指定席、カウンターで桂を見つけたのは更に二日ほどたったある日の早朝だった。目を覚ました幾松はあくびを一つしながら、階段を下りた。足元は暗くてまだ確かじゃなかったが、毎日この階段を上り下りしているのだから大体の感覚は身体が覚えている。今日も同じ一日が始まる。
 薄暗がりの中のカウンター席に座っていた桂は幾松が洗ってやった着物を身につけていた。幾松は洗いきれなかった血のしみを探さないようにした。幾松が入って来るなり桂は顔を上げると、いつもの動じない表情で口を開いた。
「おはよう」
「おはよう。動けるようになったの」と幾松は少しばかり剣を含んだ口調になった。
「幾松殿のそばを食べたくてな。待っていた」と桂は答えた。
「そばを頼めるか、早朝に申し訳ないのだが」
 桂に振りまわされてばかりだという自覚があった幾松はこれ以上何か言いたくなかったので、黙って注文されたものをサービスする仕事を始めた。何でも良い、一瞬でも今の状況を考えなくて済む理由が欲しい。怪我を負って、痛々しい姿になってもなお己の信念のために、その身体に鞭を打ち前を目指す。どうしてこんなにバカなんだろう。そんな思いを振りきるようにねぎを刻んだ。深入りしたらいけないのは、分かっていたはずなのに。
 静かな朝だった。珍しく桂も黙っていた。いつもならば、カウンターにいたら子どもみたいにべらべらしゃべって、こっちが何も聞かなくても自ら日常生活の報告を始める男が珍しく黙っているものだから、幾松はそれがまた、今の状況の異常性を際立たせているようで嫌だった。でも、何も言い出せなかった。口を開けば、言ってはいけない言葉をかけてしまうのが明らかだったから。だから何も言わない方が良い。入り込んではいけない領域なのは理解している。
 出来上がった温かいそばを出すと、桂はうん、と頷いてから受け取った。ずるずるとそばをすすり始める音だけが店内に響き渡って、しばらくはそれだけで良かった。この北斗心軒にある毎日の光景の一つ。いつの間にか、桂という男がそこに入りこむようになっていた。国を変えるんだと意気込んでいるらしいのは知っている。あんな義理の弟しか知らなかったものだから、攘夷志士の中にこんなにまじめでまっすぐで、本当に国のために身をささげている人がいるなんて全く思いもよらなかった。
 あの血を見た時、怖かった。人の身体が傷つけば血が流れるのだという当然の現象が桂にも起こっただけのはずなのに。もう、知っている誰かが死ぬのは嫌だ。それが誰でも嫌だ。けれど、そんな幾松の思いを、攘夷志士である桂に押し付けることはとても出来ない。
「幾松殿、」といつの間にかそばを食べ終えていた桂が口を開いた。幾松は、わざと目を合わせなかった。桂だって、幾松が何を言いたいかくらい分かっているはずだ。
「俺が怪我を負ってここに来た晩、君は男というものはバカばかりする、そう言っていたな」
「そんなこと言った?」
「ああ、言った。俺はずっとその意味を考えて来た。大吾殿もそうだったか?」
 まさか桂の口から死んだ夫の名前が出て来ると思わなかった幾松はきょとんとなって桂を見た。
「さあ、どうかな」
「そうだったはずだ。幾松殿のような女の夫になるからにはそれだけの気骨と無鉄砲さくらい持ち合わせているだろう。それに、男子生まれ出づる者、大事なものはこの手で守らなくてはならない。・・・今までの俺には守るものなどなかった。今までの俺にあったのは信念だけだった。けれど、今の俺には守らなくてはならないものがある。大事なものを持った男は、何よりも強くなるものだ。だから俺は行かなくてはならん」
「そんな怪我でも行くんだね」
「大丈夫、大した怪我じゃない。恩師のおかげでな、そんなに深い傷ではなかった。彼の話はまだ幾松殿にしていなかったかな、帰ったらまたゆっくり話せる機会もあるだろう」と桂は言葉をとぎってから幾松をまっすぐ見つめると再度口を開いた。
「何より幾松殿の手厚い看病のおかげでだいぶ良くなった。どれだけ礼を言っても足りないほどだ。君が俺にしてくれたことに対する礼は、戻って来たら改めてするつもりだ。まずは平和を取り戻さないことには始まらんからな」
 そう言うと桂は立ち上がった。幾松はその姿を目で追った。すると桂は、見たこともないほど優しく微笑んだ。
「大丈夫、必ず帰って来る。俺は必ず帰って来る。待っている者があれば、男はどうしてでも帰りたいと願うようになっているものだ。帰って来たらまた、幾松殿のうまいそばを食べに来る予定だ。あ、それと、すまないのだがんまい棒買って来てくれた人にしばらく礼を言えそうにない。代わりに言っておいて欲しい」
 桂は扉をがらりと開けながら、幾松を見つめてはっきり言った。
「行って来る」
 気をつけて、とか命を大事にして、とかそんな言葉ならいくつも思いついたけれど、結局幾松は何も言えなかった。命をかけた戦場に向かう男に一言さえ声をかけられなかった。口を開いたら、行かないで、そう言ってしまいそうだったから。桂の表情ににじんだ決意に幾松は気づいていた。
 言葉がこれほど凶器になりえるものだなんて今まで幾松は知りもしなかった。会話の重さを知った。そんな幾松に出来たのは、日常の至る部分に祈りの跡を残して行くことだけだった。目を覚ました瞬間、布団を押し入れにしまいながら、顔を洗いながら、早朝の仕込みをしながら、朝食を食べながら、ゆでたそばを上げながら、お客さんとの何気ない会話の中で、とりとめもないニュースを見ながら、熱いお茶をすすりながら、眠りに着く前のまどろみの中で。幾松はあらゆる場面に祈りを残した。それしか出来ることはないと分かっていた。平然と生活を続けながら、時々桂を思う気持ちが入りこんで不安を忘れようとした――忘れられるはずがないと分かっているのに。
 夕食の後に惰性でテレビを見ながら幾松は不意に桂の質問を思い出して、真剣に考えてみた。夫婦とはどんな会話をするのだろう?思い出せない、桂に言ったことは本当だった。かつて夫だった人と交わした会話のたわいなさしか幾松には思い出せなかった。そもそも、毎日仕事で忙しかったから入れ込んだ会話なんかしなかった。ただ、二人には北斗心軒があった。一緒に同じものを見て行けた。会話って、何だろう。思い出そうとすると桂の存在が流れ込んで来る。だから、結局幾松は考えるのをやめた。
 桂に守るものがあるのなら、自分には一体何があるのだろうと幾松は訝った。何にもないような気がした。空っぽになって行く気がした。
 漠然と、桂が死んだ可能性を想像してみる。意外に心が冷静であってくれることがありがたかった。死というのは、年月と共に実感するものだ。空っぽになった部屋、聞こえなくなった声、あせない思い出だけが残されて、完全なる線引きをされたのを知る。そして、毎年届く年賀状には夫宛てのものがなくなった。たんすには自分のものだけが増えて行き、夫のものは変わらないまま。使われなくなった夫の茶碗、箸、そして指定席だった場所が空になった。いつの間にかそれを埋めたのは桂だった。
 感傷的になるつもりはちっともない。一度、もっと重い死を経験しているのだからこのくらい。そう思いたかったのに、やっぱり気づかないうちに生まれる祈りは日常に影を差す。
 客が引いた店内で片づけをしていた幾松は窓から差し込む赤い光がとても美しいのに気づいた。きっと夕陽が美しいからだ。疲れ果てた気分を少しでも変えようと外に出ると、水撒きをしながら歌舞伎町に沈む赤い夕陽を眺めた。全てを照らす太陽が真っ赤に燃えながら、また次なる場所を求め消えて行く。明日の朝までさようなら。太陽のように必ずまた会える確証があるのなら、誰も不安になったりしないのに。
 夕陽の美しさに他人事のごとく魅入りながらも桶に入った水をひしゃくで撒こうとすると声をかけられた。
「幾松殿、」
 その声に幾松は顔を上げた。腕を組んだ桂が、赤い夕陽の光を浴びてそこにいた。幾松は、思わず瞬いてからてから、その行動が眩しさのせいなのか、突然の出来事のせいなのか訝った。桂は少し疲れているように見えたが、それでも幾松が祈りの中に見つけた姿よりもずっと確かだった。本物なのか、あるいは幻想かもしれない。結局帰って来ない気がしていたけれど、でも同時に同じだけ帰って来るのを願っていた。そんな混乱した幾松に向かって桂は言った。
「ただいま」
 その声色の優しさを幾松はただ、信じたかった。
「おかえり」
 生きて帰って来てくれてありがとう、とか戻って来てくれて良かったとか、そんな可愛らしいことを言えるような性格でもない幾松にはそれが精一杯だった。
 桂は全てを受け入れたと言わんばかりの態度で、ただ幾松をまっすぐ見つめていた。
太宰治「正義と微笑」+小津安二郎「東京物語」

back to Home